ほぼ一か月ぶりの投稿を書こうと思ったのは、本日終了した「虎に翼」の最終回、主人公最後の台詞であり問いである「みなさんにとって法とは何かしら?」に共鳴したからです。
アリスベイリーの秘教学を学ぶ私にとっての「法」とは「法律ではなく、法則」です。ホワイトマジックにこのような文章があります。
大きな移行期は今終わろうとしている。そして、生命の精妙な領域がこれまで以上に身近なものになっている。尋常でない現象や不可解な出来事がこれまでにないほど頻繁に起こり、日常的なことになっている。 この本では、与える情報を、今日私たちが認識している生命システムに適合させるように努め、神秘と呼ばれているものすべてが基本的にはいかに自然で現実的なものであるかを示そうと思う。すべては法則のもとにある。法則の美と現実性をさらに正しく認識できる段階にまで人間が発達してきたため、法則は今明らかな説明を必要としている。
ホワイトマジック(上巻)序文
アリスベイリーの秘教では「法律」という言葉は殆ど出てきません。かわりに「法則」を取り扱います。
「虎に翼」は真正面から日本国憲法に向き合ったことで、日ごろは朝ドラを観ない人も巻き込んで話題となりましたが、それは多くの人が「法律の存在を受け入れている」からだとも思いました。法律の内容は「完璧」とは考えてないでしょうが、「法律が必要不可欠な存在である」と誰もが100%認めているのは事実だと思います。しかし、史上稀にみる世界大戦を引き起こしたことで戦前から戦後にかけての「法律」は確かに、明らかな説明を必要としました。そのような時代を必死に生き抜いた先達たちの苦闘を、令和の時代に朝ドラを通じて振り替えることで、未来の私たちにエールを与え、もう一度「法律とはなんですか?」を説明したのが、「虎に翼」だったのでしょう。
しかし、令和を生きる私たちにとって「日本国憲法」はあって当たり前の存在であるため、「その存在を明らかにする説明ではなく、時代にあった内容のアップデートについての議論が必要」だと私は考えます。
先ほどのホワイトマジックの文章「法則」を「法律」に置き換えた文章が以下のスライドです。
ここであらためて「法律」と「法則」の違いを明らかにしたスライドをみてください。簡単にいえば・・・・・・
「法律は人が作るルールであり、社会の変化によって改変されるもの」 「法則は自然や物理現象であり、人が作るものや定めるものではなく、変わるものでもない」
このスライドの写真は「北京の紫禁城にある廌(ち)」といわれる神聖な動物です。ほんとに虎に翼があるような一角獣で、龍のようにもみえます。そして「法」が「「氵ーさんずい」であることから、寅ちゃんが「法律は純粋な水の源のようなもの」と言ったのも腑に落ちます。
私たちにとっての法律は「偉い先人たちが決めたルールであり、それに従わざる得ないもの」です。そして国によって法律は変わるため、何が正しいのかーという人類共通の認識には到達できない、国というコミュニティに根差したルールです。
しかし自然の法則は、人類の都合は全くお構いなしに「在る」仕組みです。例えば最も明快な法則は「重力」であり、この世界には地球の重力の法則を経験したことがない人はいませんし、変化しては困るものでしょう。法則は人間以外の存在が作り出した一定の規則です。この「人間以外の存在」を宗教では神といい、社会では自然といったりします。
そんなわけで、法律は人間が作るものですから、その時代の力ある権力者が自分に都合がいいように作ってきた歴史があります。ですから信用がおけないものーという認識にもつながるかもしれませんが、先ほども書いたように「法律」そのものの存在を否定している人は圧倒的に少ないと思います。誰もが「公平で平等で幸せを追求できる社会」であるためには、法律の存在は必須だと、誰もが本能的に理解しているでしょう。
しかし、その法律が「完璧」であると思っている人もまた少なく、時代に合わせて改変する必要性を実感するのは、一人一人の人間で構成されている社会で起きる失敗(事件や事故や災害)に遭遇した時です。その失敗を謙虚に反省して、変えてはならない普遍的な本質を対話で確認しながら、法律は改変されつづけなければなりません。
この「普遍的に変わらない本質」を法則といいますが、人類はまだ宇宙を、地球を貫く法則については科学的な理解ははじまったものの、全容を把握してはいません。ですから過去の歴史を学び、研究することで、法則性を探し出ねばならないのですが、長くても100年しか生きれない人間が体験して知れる法則には限界があります。この「法則」ー長い年月をかけてしか浮かび上がらない定めーを伝えるのが「叡智」であり、その一つがアリスベイリーの秘教学です。
ー法律は変わるが、法則は変わらない。どちらも内容を詳細に知っていても知らなくても自由意志は適用されず、従わなくてはならない強制力があるが、法律は破ることができるため罰則がある。しかし法則は「破る」という概念はなく、知らないことで本質から外れて、目的地を見失う可能性があるだけ。目的地を見失うことの罰は時間のロスだけであり、いずれは「どのような放蕩息子もいずれは家に帰る」と言われているー
日本の法律は古代は中国から、近代ではヨーロッパから輸入されたものであり、とくに終戦後はアメリカの関与によってつくられた外国伝来の法が日本の憲法だという意見があります。ですから日本国憲法もまた、時代に合わせて変化する可能性はあるでしょう。
写真:日本の最高裁判所、大法廷
しかし決してくり返してはならないことは、戦前のように権力者が時代の流れに逆らった法律を作ることです。その法律は悪法となり市民の生きるエネルギーを奪い、その逆流に大切な本質は呑みこまれ、法則も見失われるでしょう。法律の制定に責任がある政治家や司法に携わる人々は、時代の風(知性)と水(感情)の流れを読み、目的地に向かう航路を正しく選び、安心安全に航海できる「船」をつくらねばなりません。この言葉が、最終回の前の回で寅ちゃんがしっかりと宣言しました。
「人が人らしくあるために尊厳や権利を運ぶ船。社会という激流に飲み込まれないための船。船の使い方は乗り手次第。人らしさを失い沈むことも、誰かを沈めることも、間違うこともある。人生という船旅を快適に幸せに終えるために、乗り手の私たちは、船を改造したり、修繕したりしながら進む」
この言葉をうけて、私は法律ではなく「法則」という「法」を学び探求する者でありたいのだと確信しました。法律が「船」であるなら、人類が普遍的に共有できる変わらない法則ーその変わらない「法則」は船を目的地へと運ぶ羅針盤ではないでしょうか。この羅針盤が指し示す方向は生命の法則が定めており、人智を越えた目的地です。法律も法則も、どちらも人が幸せに生きるために必要不可欠な存在です。
私はこの「法則」を知りたくてアリスベイリーの秘教学を学んでおり、寅ちゃんが体験したような「私を亡き者にしようとする世間の冷たい視線」を感じながらも、誠実に質素に宗教でもスピリチャルでもない学問を「石を穿つ雨だれ」として学んでいます。
この半年、「虎に翼」を届けてくれてた脚本家の吉田 恵里香さん、私の感情を引き出した演技をした伊藤沙莉さん、キャスト、スタッフのみなさんありがとうございました。
そして「さよーなら、またいつか!」と言えるような「雨だれ」の仲間に、読者のみなさんが出逢えていますように。
写真:昔の大法廷に飾られていたのは日本最初の成文憲法である「十七条憲法」をつくった聖徳太子の絵画。
最後に最終回の桂場さんと寅ちゃんの台詞を掲載しながら、「女性と男性」の不平等の違いが終われば、次は「魂意識とパーソナリティ意識、または精神性と物質主義」…より複雑な違いが人々の意識を分断させる新たなテーマになると予感したことを、ここに記したいです。
宗教ではない文脈でみえない世界のことを信じている人はごまんといます。ただ時代が私たちを特別にしているだけかもしれませんが、これからは普通になる時代がきっときます。叡智やアリスベイリーの秘教学が多くの人に知られる時代は、必ずやってくるはずです。自分を「特別」と思わないよう心掛けて、時代が追いついてくるのを待つのは「道」を歩くことだと思います。
不可視の世界のことを学ぶことを世間は否定したり「お花畑」とか「スピ系」と笑いますが、「ほんのわずか」であっても、焦らずに歩みましょう。この地獄の先にある春を信じて。
桂場:私は今でもご婦人が法律を学ぶことも、職にすることも反対だ。法を知れば知るほど、ご婦人たちはこの社会が不平等でいびつでおかしいことに傷つき苦しむ。そんな社会に異を唱えて何か動いたとしても、社会は動かないし変わらない。
寅子:でも、今変わらなくても、その声がいつか何かを変えるかもしれない。
桂場:キミはあれだけ、石を穿つことのできない雨垂れは嫌だと腹を立てただろう。
寅子:未来の人たちのために雨垂れを選ぶことは苦ではない。むしろ至極光栄です。
桂場:それは君が佐田寅子だからだ。そんな地獄を喜ぶ物好きはほんのわずかだ。
よね:ほんのわずかだろうが、たしかにここにいる。
桂場:(笑いながら…)失敬。撤回する。君のようなご婦人が特別だった時代はもう終わったんだな。
寅子:はて? いつだって私のような女はごまんといますよ。ただ時代がそれを許さず特別にしただけです。
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